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高校野球黄金時代を振り返る!   第1章 アイドルの系譜

森本栄浩毎日放送アナウンサー
100年を超える高校野球の歴史上、最も厳しい今、過去の栄光を振り返る(筆者撮影)

 センバツ中止が決まって1か月余り。心機一転、夏に向けてスタートしようと選手たちは張り切っていたはずだ。しかし、「新型コロナウイルス」の勢いは、収まる気配すら見せない。6月には沖縄や南北北海道で夏の地方大会がスタートする。休校が続く高校現場では、野球部の活動もまったく見込めない状況で、夏の甲子園開催も懐疑的になってしまう。そんな時だからこそ、高校野球の歴史を振り返ってみたい。(文中敬称略)

「高校野球黄金時代」とは?

 この言葉に定義はない。あるアンケートで、「あなたが思う最高の名勝負は?」という質問に、年齢層によって大きな差があったのと同じだ。それは、リアルタイムで見ていたかどうかにかかる。30代以下の若い読者にとっては、1979(昭和54)年の箕島(和歌山)-星稜(石川)の延長18回は、単なる「伝説」にすぎない。松坂世代を見た人なら真っ先に、横浜(東神奈川=当時)-PL学園(南大阪=同)の延長17回の死闘を挙げるだろう。昨年の星稜-智弁和歌山を見て、高校野球に魅了されたファンもいるはずだ。したがって、現在が「黄金時代」と感じている人がいてもおかしくはない。100年を超える歴史を持つ高校野球にはさまざまな転機があり、多くの人がそれを「黄金時代」の起点と考える。

甲子園アイドル1号は太田投手

 「黄金時代」を語る上で、切っても切り離せないのが甲子園の「アイドル」である。現在58歳の筆者は、アイドルの存在がファン層を広げる大きな要因だと思っている。筆者にとっては、アイドル誕生が、「黄金時代」の起点となる。その第1号が、1969(昭和44)年夏の三沢(北奥羽=青森)のエース太田幸司投手(近鉄ほか)だ。当時から高校野球は人気があり、甲子園は常に多くのファンで埋まっていた。それでもやはり野球ファンの中心は成人男性で、高校野球も例外ではなかった。当時小2の筆者も、野球好きの祖父、父とプロ野球のナイターはよく見ていたが、それまでに高校野球を見た記憶はない。端正なマスクで、強豪と互角に渡り合った北国のエース太田は、たちまち女性ファンを虜にした。その三沢と松山商(北四国=愛媛)の延長18回引き分け、さらに再試合は、周囲が大騒ぎしていた記憶があり、幼心に「高校野球は面白いのか」と感じた。

箕島・島本に感じたドラマ性

 その直後の大会は1970(昭和45)年のセンバツ。ちょうど50年前になる。この大会は、大阪万博の開催とも重なり、万博と甲子園をセットにして訪れる遠来のファンが多かったと聞く。箕島と北陽(現関大北陽=大阪)の近畿勢同士による決勝は、延長にもつれ込む大熱戦となり、箕島がサヨナラで初優勝した。サヨナラ打を放った島本講平(南海ほか)はエースでもあり、テレビは大写しで島本の表情をとらえていた。色白で悲壮感を漂わせた太田とは対照的に、島本には子どもたちが憧れるようなたくましさがあった。優勝インタビューで涙する姿は、マウンド上とあまりにも対照的で、高校野球のドラマ性を初めて実感した。筆者が本格的に高校野球を見たのはこの大会からである。

「父子鷹」の原は定岡と死闘

 この二人の「コーちゃん」に続くアイドルが、現巨人監督の原辰徳(東海大相模=神奈川)だ。1974(昭和49)年夏、名門の1年生5番打者としてデビューした原は、父の貢監督との「父子鷹」としても話題になった。筆者はこの大会の盈進(広島)との試合を甲子園で見ている。ただし、原が真のアイドルとして認知されるのは翌年のセンバツからで、この大会では1大会限定?のアイドルに惜敗する。準々決勝で当たった鹿児島実には、定岡正二(元巨人)という美男のエースがいた。ナイター照明の中での死闘は語り草で、この試合を前に甲子園をあとにしていた筆者は、いまだに惜しいことをしたと後悔している。この時点では、定岡の人気が原を上回っていた。原監督は、5年前の夏、父・貢氏の育成功労表彰に代理で出席した際も、「定岡さんに負けたあとの帰りのバスで、絶対にまた来ようと思った」と懐かしそうに語っていた。

原は高校野球史上最高のアイドル

 原は翌年以降も甲子園で大活躍する。センバツの決勝では高知に惜敗するが、特大アーチを描いて実力の片鱗を見せた。3年間で4度の出場を果たし優勝こそなかったが、太田を上回る人気は、高校野球の長い歴史でも最高のアイドルと言っていい。プロ入りしてすぐ巨人の看板選手となり、現在まで、常にスポットライトを浴び続けている。プロ野球中継で、何度かインタビューの機会に恵まれているが、年齢を感じさせない端正な容姿とスマートな受け答えは、生まれながらのスターそのもの。筆者にとっても憧れの存在である。余談になるが、この「鹿実-相模」戦は、NHKの放送が途中で終わってしまい(鹿児島と神奈川は継続)、苦情が殺到。教育テレビ(Eテレ)でリレー放送するきっかけとなった。

「バンビ」坂本は1年夏に脚光

 次のアイドルは、1977(昭和52)年の東邦(愛知)の1年生エース、「バンビ」こと坂本佳一(法大~日本鋼管)である。名門のエースとして、ややひ弱そうな雰囲気を醸し出しながらも、上級生に支えられて決勝まで勝ち進んだ。最後は延長サヨナラ弾で東洋大姫路(兵庫)の軍門に下るが、その悲劇性もあって、特に女性に人気があった。残念ながらこれが最初で最後の甲子園となり、アイドルとしての坂本は、茫然とサヨナラの瞬間を見届けるシーンに凝縮される。多くの甲子園アイドルがプロに進んでからも注目されたが、坂本は高校野球限定のスターとして、野球ファンの記憶に残る。そして坂本の登場以降、「1年生エース」がキーワードになる。

荒木大輔は1年夏から5大会皆勤

 1980(昭和55)年夏、彗星のごとく登場した荒木大輔(元ヤクルト)は、実力も兼ね備えたスーパーアイドルだった。中学時代(調布リトル)、世界大会優勝という実績を引っ提げ、名門・早稲田実(東東京=当時)に入学。地方大会中に、主戦の故障で出番が回ってくるという強運の持ち主でもあった。初戦で強豪の北陽を1安打完封すると、準決勝の瀬田工(滋賀)戦まで44回1/3を無失点。決勝では横浜に打ち込まれたが、荒木はその後も甲子園の中心にいた。この年に生まれた男子で一番多い名前が「大輔」だという。高校球児の甲子園最多出場回数は「5」。荒木は5大会連続の「皆勤」を果たしたが、3年生の夏は池田(徳島)に粉砕され、一度も頂点には立てなかった。荒木は指導者としても評価が高く、現在は日本ハムの二軍監督として活躍している。

桑田・清原で黄金時代完結

 次の1年生アイドルは、1983(昭和58)年に登場したPL学園の桑田真澄(元巨人ほか)である。池田の3大会連続優勝に待ったをかけ、これまた甲子園5大会皆勤。清原和博(元西武ほか)との「KKコンビ」は一世を風靡した。デビューの大会と、最後の3年生の夏が優勝という劇的な甲子園ストーリーは、「高校野球黄金時代」を完結するにふさわしい。筆者は、この荒木デビューから桑田・清原で黄金時代が最高潮に達し、長く続く甲子園アイドルの歴史は、ひと区切りがついたと思っている。そして、その間にあった2試合が、極めて重要な役割を果たしていることに気付く。次章では、それを詳しく述べたい。

毎日放送アナウンサー

昭和36年10月4日、滋賀県生まれ。関西学院大卒。昭和60年毎日放送入社。昭和61年のセンバツ高校野球「池田-福岡大大濠」戦のラジオで甲子園実況デビュー。初めての決勝実況は平成6年のセンバツ、智弁和歌山の初優勝。野球のほかに、アメフト、バレーボール、ラグビー、駅伝、柔道などを実況。プロレスでは、三沢光晴、橋本真也(いずれも故人)の実況をしたことが自慢。全国ネットの長寿番組「皇室アルバム」のナレーションを2015年3月まで17年半にわたって担当した。

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